今年から、新聞やニュースで「買い物難民」という言葉を耳にするようになった。買い物難民とはその名の通り、過疎地の高齢者に代表される日常の買い物が満足にできない人達のことをいう。小売店は遅くまで毎日営業し、なんでも売っているし、安い、加えて、すぐ行けばコンビニがあり、ホームセンター、ドラッグストア、家電量販店、ディスカウントストアとなんでも揃っている地域に住んでいる人達には対岸の火事かもしれない。
しかしながら、小規模小売店の減少、商店街の衰退により日常の買い物ができない、移動が遠くて重労働となっている高齢者が増加しているのである。これらは過疎地、山間部のみならず、都市部郊外や以前のニュータウン、下町などにも多く見られる現象となっている。特に女性の長寿命化により、高齢女性の単独世帯が増加し、それらは相対的に運転免許を持たない世代であるため、長距離移動による買い物が出来ないし、当然ネットを駆使した買い物もできない。そもそもネットスーパーなるものは、山間部や僻地をそのテリトリーに入れていない。ネットスーパーはその気になれば買い物にいける人達が、さらに便利になるものでしかない。
便利な世の中になった反面、買い物ができない人達が増加しているのであるが、まず「便利」とは誰から見て便利なのか?を考える必要がある。もちろん便利とは、最大公約数となる人々から見た便利である。概ね、都市部又はその郊外に住み、自動車又は便利な交通機関を持つ中間所得層が最大公約数となろう。しかし、高齢化が進み、単身世帯が増加する中で、その「最大公約数の外にいる人達」が増加しているのである。だから今、その人達が直面している問題は、将来にわたり深刻化していく可能性が高い。
高齢者の買い物が将来、不便になることは流通業界では10年近く前から不安視されていたことである。実際、6年ほど前に、私が出店候補地の調査のため、和歌山県の山間部を回っていたとき、食料品や雑貨(洗剤など)を積んだ軽トラックが車を止めて商売をしているのを度々目にした。お客さんはほとんどが女性の高齢者、70代、80代である。
私が子供の頃は、母親と一緒によく近所の市場に買い物に行ったものである。市場では、八百屋、乾物屋、川魚屋、かまぼこ屋、肉屋、鳥屋(鶏肉、卵)、漬物屋、豆腐屋、総菜屋、魚屋、お菓子屋、雑貨屋、化粧品店などが軒を並べていた。現在では、食料品店はスーパーへ、金物屋・荒物屋・雑貨屋はホームセンターへ、惣菜・弁当屋はコンビニへ、町の電気屋は家電量販店へ、そして米屋、酒屋、靴屋、本屋、玩具、婦人服、文具店を営んでいた個人店(零細事業者)は量販店、チェーン店、業態店に駆逐されてしまった。食料品店のうち個人店は、昭和57年から平成19年の26年間で6~7割が消失している。
これはもちろん、量販店やチェーン店、業態店は消費者の生活を劇的に便利にするものであり、個人店は時代に取り残された結果である。先に書いた私の子供のときの市場は、夕方6時には店じまいし、駐車場もなく、価格も安いとは言えなかっただろう。しかし、そこには活気があり、地域の会話があり、コミュニティー、人々の触れ合いがあった。今、そのことが見直されているのである。言葉は悪いが、私たちが潰してきた、又は不要であるとして選択肢から外してきたモノが、今、また将来、必要とされているのである。皮肉なものである。人は「無くしてはじめて、その大切さを知る」のはなんでも同じである。
いずれにせよ買い物難民を支援する必要があるが、店舗を構えた商売では採算が合わないし、移動販売、乗り合いバスによる移動手段の提供、青空市などいずれもボランティア的側面が強く、地方の助成抜きでは収益事業として成り立っていない。私も新聞によりこの問題を認識し、分析を重ね、いくつかの事業アイデアを持っている。流通業、小売店に携わる者として、この社会問題、メガトレンドについても考えていきたいと考えている。
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