さて、入試問題が試験中にネットに流れ、それにより不正受験した問題で世の中はもちきりである。冷静になって考えてみると、『単なるカンニング』(不適切な表現ですが)である。最初聞いたときは、むしろ『どうやって?』ということに私は興味が湧いたものである。ここで、『試験をカンニング、それもネットを使うとはけしからん!(怒)』ではつまらない。独自の視点で考えてみた。
私が中学生、高校生の頃は、よくカンニングしたものである。よく使う手は、机に薄っすら書いたり、筆箱にメモを隠しておいたり、消しゴムに書いたり、机の裏にテキストを足ではさんでこっそり見たり・・・とそんなことが多かった。試験を受けている人には常に『カンニング』への誘惑がある。試験で良い点を取りたいし、合格したいのである。しかしながら多くの人はカンニングはやらないであろう。なぜなら、カンニングにはリスクがあるからである。もちろん『カンニングが見つかる』ことである。私も社会人になってから色々な試験を受けたが、それをしたことはない。
このリスクは、例えば受験生のレベルによって大きく異なる。受かる可能性があればあるほど、そのリスクは大きくなり、受かる可能性が小さければ小さいほど、そのリスクは減少する。即ち、一定時点で『カンニングしないで不合格 ≒ カンニングしてばれて失格』になるからである。要は、どうせ受からないのであれば、賭けてみる、といったところである。
ところがそれでも多くの人はカンニングをしない。なぜなら、人には良心の呵責があるからである。『カンニングして受かっても、合格しても本当に心から喜べない』である。もちろん、大前提として『カンニングは悪いこと』でもある。
そして以前のカンニングは自分ひとりで企画し、準備し、実施していたクローズド系であったが、今回のカンニングはオープン系である。学生の宿題や論文、研究問題などはネットを丸写しといった問題が以前からあったようである。いちいちはじめから資料を探し、その情報源をつきとめ、考え、まとめる、といった作業をやるよりも、目の前にあるグーグルで検索すれば超スピーディーであり、そうしたくなる気持ちも分からないではない。人はつい目の前のこと、短期的なことに気が向かってしまう。
私の現在の会社で求人があり、採用担当として面接に当たっているが、ほとんどの人が短期的な職を求めているだけで、長期的に『こんな能力を持ちたい』とか『こんな仕事がしたい』、『こんな強みを伸ばしたい』と言える人はほとんどいない。これだけ厳しい就職環境の中で、よく平然と努力もしないで応募してくるものである、などと思ってしまう。人はとりあえず目の前のめんどうなことが片付けばよく、それで『ほっとしたい』のであろう。
話がそれたが、カンニングをやる者がまったくいない世界は存在しない。今回もそれだけの話であり、いくらネットで漏れたからといって、受験生が大挙して試験時間中にネットにアクセスする可能性は極めて低いと考える。なぜなら、人がカンニングすることをさえぎる心理的なハードルがあるからである。何があっても、正常な状態であれば、ほとんどの人はカンニングはしないのである。大学側も話が大きくなったから、警察沙汰としているが、それを防止できない大学側が間抜けなのも真実である。カンニングする少数の人間に大きなコストを払うのではなく、真面目に勉強する学生、真に日本を背負って立つような人材作りにこそ、国民の注目がいくべきではないのであろうか?
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