日本人の献身性

 今回は、分析とは関係のない、情緒的な意見を書いてみたい。地震から約1ヶ月が経過した。被災者に対する支援はまだ行き届いていないし、生産活動の停止などによる経済の停滞、いつまでも終息しない原発の状態、深まる政治の混迷など、問題はまだ山積みである。しかしながら、その渦中で目にし、耳にするのは日本中の人々の献身的態度である。多くの経営者やスポーツ選手、芸能人は多くの寄付や支援を行い、老若男女を問わず、今までにはない支援の輪の広がりがある。

 今回の震災において、多くの人々は「とにかくなんでもいい、何か貢献したい!」と思っている。私も自分のできることをしたが、それでも何か一種の「うしろめたさ」を持っているのが事実である。本当にしたいことは、「被災地に行って、被災者1人だけにでも、ほんの少しでも役に立ちたい」である。もし、3万円で被災地の支援に行くツアー(3万円はそのまま被災地に寄付する)があれば、希望者は殺到するであろう。寄付+労働提供の両方を満たす商品だからである。なぜ、ここまでの思いにかられるのか?

 

 ここに人間が持つ、本性とも言うべき、「人から感謝されたい」あるいは「困っている人を助けたい」という叫びがあるのである。それはお金がもらえるからでも、社会への帰属を求めているわけでも、自分への尊厳を求めているわけでもない。単純な同情でもない。そこにあるのは、助け合い、支えあう、本来の人間社会が持つ、「村社会」の姿である。

 

 現在の社会は無縁社会と言われるように、地域社会の接近性はなくなり、集会所での寄り合いや近所での立ち話といった風景は以前に比べて大きく減少した。地域における集団性や連帯意識、多数決を前提とする村社会は、それと大きく異なる独立性、個性の尊重、女性の意見といったものとはそぐわない部分がある。核家族化、女性の社会進出に伴う女性の自立化、都会への人口集中、そして経済成長によるあふれる便利や商品・サービスなどが、他人とコミュニケーションを取らなくても生活できる社会を構築してしまったとも言える。

 

 しかし今、再度、村社会が求められる時代、必要になる時代になっている。なぜなら、高齢者の増加や単身者の増加、子供を持たない人の増加、以前に比べて少ない兄弟の数、それに伴う親戚人数の減少など、個人の潜在的な、生活不安に陥るリスクは高まっている。それに加えて、所得の停滞・減少、年金支給開始年齢引き上げや絶対額の減少、増税や社会保険料負担の増加など、将来不安はさらに大きくなる。今こそ、村社会により、多くの人でリスクを共有しあう仕組みが必要になる。それは生命保険や共済制度ではカバーできない、今まで家族間で負担してきた仕組みの代替そのものである。

 

 例えば、妻が夫の親を在宅で世話をする、親が入院してお金がかかれば多くの兄弟全員でお金を出し合う、近所に一人で住んでいる父親の様子を兄弟で交代で見に行く、といったことの代替である。もちろん、お金があれば、そのリスクを減少させることが可能であるが、以前のように大きな資産を持つ層は今後は減少が見込まれる。どんな統計を見ても、多くの人の生活には余裕がないからである。

 

 もちろんノスタルジーだけで、そのようなパーフェクト・ワールドができるわけではない。少しずつ、地域の人が協力できる仕組み、そして気軽に参加できる制度構築をする必要があり、それには長い時間がかかるであろう。だが、日本人がDNAとして持っている他人への思いやり、社会への貢献意識を生かせば、もっと楽しい社会ができるのかもしれない。

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