国歌斉唱

 大阪府の橋下知事が「君が代斉唱時の教員の起立義務化条例案」に強い姿勢で取り組んでいる。毎度お騒がせします、といった感じである。さて、今回も独自の視点で考えてみたい。

 君が代とは何か?いうまでもなく国歌である。しかしながら、この君が代については、論争が絶えない。私も詳しく知るわけではないが、集約するなら、君が代は天皇に対する忠誠心、戦争に突き進む軍国主義的日本を連想させるといったことがその代表的要因であろう。

 

 その国歌であるが、詞の内容は、一見どころか、活字にしてよく見ても、ほぼ意味不明である。その内容を説明できる日本人も一握りであろう。ところがアンケート結果を見ても、国民の過半数以上は君が代を国歌として認めている。この「認めている」には、積極的か消極的かの2種類がある。なんとなく子供の頃からそうだったから、君が代は国歌である、という消極的なコンセンサスに分がありそうである。君が代は国歌にすべきか否か?となった場合、過半数の国民の本当の腹の中は「どっちでもいい」かもしれない。

 

 無論、小学生の入学式や卒業式で、一部の教師などが起立をしないことについては、規律を重んじる日本人、人に合わせることを良とする日本人には違和感を抱かせることもまた真である。教師自身にも、起立=君が代を認めたこと、にならないため柔軟な考えも求められるのかも知れない。実際に、会社で社歌を歌うときに起立をしないのであれば、クビになる可能性は、会社員が公務員よりも高い。会社と国をひとくくりでみることは出来ないが、組織に属するというのは、目に見えない「規律を守るべき」という高い圧力が存在する。

 

 だからといって、ルールでそれを守らせることに何の意味があろう?重要なことは、形式的な愛国心を作ることなのか?セレモニーの国歌斉唱で全員が起立すれば良いのか?そうではあるまい。日本という国を心から愛し、よりよい国にして、世界から尊敬され、世界に貢献できる国にすることではないのか?未来の日本を支える子供たちを教育する場にある教師が、いかにそのことを理解して仕事をするかが重要なのである。それを置き去りにして、条例で縛っても、そのことはむしろマイナスに働く可能性があることも理解すべきである。

 

 今回は目的が「セレモニーで君が代斉唱時に、全員の教師が規律すること」であり、手段が条例で「もし、それに違反した場合、行政はその違反者に罰を与えることができる」である。それによって、何が良くなるのか?その目的を達成したときに、得られるモノは何か?見た目の規律を守らせることも必要だが、なぜそれが必要かがまったく見えてこない。橋下知事の主張は「君が代は国歌であり、公務員は起立をしなければならない」だけである。もはやそれが好きか嫌いか、だけが焦点になっている。そこには議論も自由な考えも歴史の振り返りも何もない。彼の行動・言動からは、ヒステリックは常に冷静さを喪失させる行為であることを学ぶことができる。それはヒステリックから戦争に突入した大日本帝国の軍部に通ずる。下記を本当に発言したかどうかは未確認であるが、本当ならば、彼は間違いなくヒステリックである。

 

「公務員が国歌、国旗を否定するなら辞めればいい」
「起立しないのなら、府民への挑戦と捉える」
 「不起立を繰り返した教員の学校名と実名の公表を検討する」

 

 自分の言うことを聞かない公務員は除外する、市議をハイジャックして、あるいは自らが市長になって平松市長を追い出してやる!といった手法は如何なものか?自分が正しい、と思うのは悪くないが、自分の価値観の他人への押し付けは身を滅ぼす。権限はふさわしい人間が持つことが必要であることを示す好例である。加えて、政治家は国民の関心よりも、自分のヒステリックに対する関心に優先度の高いことも示している。

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