経済合理性と安全性の狭間で

 相変わらず原発問題は毎日のようにニュース、新聞に話題を提供している。その議論のほとんどは感情論に任せたものが多く、安全を取るか、経済を取るか、といった感じである。政治家、企業、民間機関、個人がそれぞれ自分の立場からの見方を振りかざし、およそ全体観を持った意見、論説は見られない。

 「安全」という観点に立てば、当然に原発はない方が良い。一方で「経済」の立場からすると、原発なくして成り立たないのもまた真である。原発がなくなる=安全な国になる、という単純な図式ではない。原発がなくなれば、原発によって得られていたものを手放すことを意味する。

 

【原発によって得られていたもの】
・安定的なエネルギーによる企業活動の促進、経済活動の活発化、それらによる所得上昇、雇用発生
・原発に対する技術力と経験値の蓄積による原発システムの海外への販売可能性
・原発が直接的に生み出す雇用
・電気料金の抑制、生活の豊かさの実現

 

 もちろん原発によって発生するデメリットもある。だが全体観に立った上での議論がないと、感情的な議論には分析も論理も入り込まない。およそ子供のけんかに類似する。一時メディア露出の多かった山本○郎の主張もあさはかの象徴にも写る。「子供の将来のために」はもちろん正義であり、誰も反論できないスローガンに聞こえる。しかし、当の子供たちは、原発メリットを放棄して、国際社会で経済的にも政治的にも衰退するかつての先進国、あるいは豊かさのない日本を求めているとも思えない。子供たちが求めているのは「安全」だけではないはずである。安全と経済合理性のバランスが求められているのではないのか?「超安全」と「超経済合理的」しか選択肢がないわけではなく、下記のAやBやCといった選択肢を検討するという論理構造が求められる。

安全と経済合理性の狭間
安全と経済合理性の狭間

 下記の曲線を見てほしい。経済合理性を考えるときには、この考え方が重要である。縦軸は品質であり、横軸はコストになる。品質の意味は、安全性や仕事のミスの減少といった項目と言い換えることができる。コストは、金銭的なものだけではなく、時間や工数といったものが考えられる。

経済合理性曲線
経済合理性曲線

 AからBへの移動を考える。ここでは少しのコストで大きく品質を向上することができる。経済合理性が高いわけである。しかしBからC、CからDへと進むにつれ、コストを投入しても、得られる品質はわずかになり、DからEではほとんど無駄なコストに見えてくる。

 

 例えば、資料作成を考えると、チェック時間をかければかけるほど、その品質(間違いの数)は改善する。しかし、最初の0分から1分の1分間と、10分から11分の1分間ではその経済合理性は大きく異なる。数学的に言えば、限界効用は逓減する。またもう少し具体的に表現すれば、現在の警官の数を3倍にすれば、犯罪は減るであろうし、解決できる事件の数も増加するはずである。しかしながら、それは多分、C→Dへの移動であり、経済合理性に合わないから、選択されないし、支持する人も少数になるであろう(個人的にはもう少し増員した方が良いとは思うが)。

 

 バスが大きな事故を起こしたからと言って、多大なコストをかけて規制をかける(○○時間以上は運転手2人以上)ことによって、どの程度、品質(安全性)が担保されるのか?それはDからEへの移動であり、経済合理性が極めて低い、あるいはマイナスメリットになってしまう可能性も考慮した判断が求められる。

 

 話はかわるが、JR福知山線の事故に関して当時の安全管理のトップであったJRの元社長が刑事責任を問われる裁判があった。感情論に任せたものの一例である。100%保証された安全を買うために、無尽蔵に資金を使うことは一企業にはできない。では国の管理にすればよいのか?国の資金を好きなだけ使って、100%安全な運行をすれば良いのか?利便性もなく、料金も高くてそれで多くの国民は納得するのであろうか?恐らく否である。JR元社長は、必ずしも安全をないがしろにしたわけではなく、企業人として経済合理性の観点からその投資をしなかったのである。それが間違いであったとしても、刑事責任を問えるものとは言えまい。それが罪になれば、企業の安全管理のトップは企業の収益を無視して、安全へ無尽蔵に資金を使う意見しか言えなくなってしまう。

 

 実際にほとんどの人が個人の生活に落としたときに、コストを惜しげもなく使って安全を買っているのであろうか?セコムなどのセキュリティーサービスや安全錠、ガードマン、無制限にかける生保・損保、頻繁な病院での検査受診、といったものを買っているのか?恐らく否であろう。なぜなら経済合理性が低い商品、付加サービスであると認識しているからである。

 

 ベトナムでは1台のバイクに3人乗り、4人乗りは珍しくない。赤ちゃんを抱いてバイクに乗っている人も多い。日本人からみれば非常に危険でマネできるものではない(法律上の問題は別にして)。しかし彼らは、「安全性<目の前の利便性」なのである。安全を守るためのコストよりも、安全を犠牲にして得る利益が大きいのである。彼らにとっては、経済合理性にかなっているのである。

 

 冗長な話になったが、経済合理性に加えて、重視すべき要素も考慮して、失われるメリットも熟考した上での比較や議論・意思決定がなければならない。感情論の衝突は不毛の象徴である。それが毎日政治や民間を舞台に繰り広げられていることは、論理構造のない日本人の多さを証明しているようである。

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